OB通信vol.41 「部歌」、そもそもの話と私の近況 (S43年卒 山積紘一)

この9月の末頃に同期の西沢君から連絡があり、バスケットボール部の「部歌」について、これが創られたいきさつを教えてほしいとの話でした。毎年の総会・懇親会で「部歌」を歌う慣習ができてきたけれども、どうしてこれが部歌なのか、皆がよく知らない。ただ、これを創ったのは山積だということは分かっていたので、彼に連絡してその経緯を書いてもらい、OB会のホームページに載せて皆に周知させよう、ということのようでした。

OB会役員の打合せのときに出た話とのことで、その 部歌(1966年版)とき2年後輩の中嶋君が、自分が山積さんから酒の場で部歌を引き継いだけれども、「じっと見上げる観衆席 じっと見つめるセーラー服の」と歌っているところは、「じっと見上げる観衆席 そっと見つめるセーラー服の」が正しいんだ、と言いだして、そこは皆も納得したけれども、そのほかのことはやはりよくわからない。

そのようなことで柿沼先輩から西沢君へ連絡するように言われて、部歌創設の経緯とともに最近はどのように暮らしているのかという近況を書き、それをOB会ホームページの「OB通信」に載せよう、という話でした。

 

そもそも最初に、この歌を部の「コンパ」で歌ったのは私です。1966年(昭和41年)、大学2年のときでした。しかし、作詞者でも作曲者でもありません。同宿の2年先輩の山口徹さん(宮崎県立延岡高校卒)に教わった歌です。高校の先輩であり、吹奏楽部の先輩でもあります。

先輩の話では、当時、各部で「部歌」を創るのが流行っていて、我々も創ろうと、酒の席でできたのが、この吹奏楽部の部歌だそうです。もと歌は、「ゲイシャ・ワルツ」(西条八十作詞、古賀政男作曲、神楽坂はん子歌)で、その替え歌です。

私も気に入って、「オレは高経のブラバン部員」のところを「オレは経大のバスケット部員」、「音がわるいとどやされる」を「態度が悪いとどやされる」と入れ替えて、座興として紹介した歌です。当時はマイクもカラオケもありません。先輩から指名されると、出身地の民謡や替え歌(色歌)を手拍子に励まされて高吟したものです。

その私の歌を、後輩の中嶋博君が受け継いで、バスケット部の「部歌」になっていたとは、驚きであり不思議であり、面映ゆくもあります。もとは吹奏楽部の「部歌」ですが、後に解散して、新たに応援団付属の吹奏楽団に改編されたと聞くので、堂々とバスケット部「部歌」であってよいと考えます。吹奏楽部の先輩方も私と同じ思いで喜ばれると思います。

 

「部歌」創設のいきさつは、このようなものですが、今から50年近い前の時代の雰囲気というものが少しは伝わったでしょうか。それでは次に少し、私の近況をお伝えしたいと思います。

今から7年前に高校教師を定年退職しましたが、現在はコーラスにハマっています。もともと、中学のときからサクソフォンを吹き続けてきたのですが、高校の部活顧問を受け持って音楽活動の環境に恵まれ、ギターやオカリナ、フルートなどにも手を広げました。

コーラスの魅力にハマったのは、2000年(平成12年)の田川での日フィル演奏「第9」合唱団に応募してからです。そこでクラシック発声法の指導を受け、のちに読売シンフォニー合唱団にも参加しました。そこで仲間ができ、誘われて結成したのが「ハーモニック・パル」という男声カルテット(4重唱)です。第1・第2テナー、バリトン、バスの構成で、2006年の退職した年のことでした。

ハーモニック(調和した、和声の)・パル(仲間・仲よし)と名乗って、メンバーの一員である作曲家によるオリジナルのほかに、童謡や唱歌、世界のポピュラー名歌、ラテン、フォーク、歌謡曲といった幅広いレパートリーを手がけ、デイサービスや老人ホームへの訪問演奏というボランティア活動を中心に、北九州地区を主として回っています。

私は第1テナーで、ギターとオカリナ、フルート、そして編曲を担当していますが、ギター2本を伴奏に身軽にどこでも出かけ、演奏するカルテットとして珍しく、重宝がられているようです。年1回は地方演奏に出かけ、「金子みすゞを訪ねる旅」でみすゞ記念館に押しかけ演奏を行い、私の故郷、延岡の点字図書館で演奏もしました。メンバー4人はまだまだ未熟と自覚していますが、不思議と聴く人には受けるようです。

昨年、2012年の5月29日から6月2日まで、東北の震災地を訪問しました。左手足に障害があって右手だけで特製オカリナを演奏する佐々木さんとお母さんが加わり、総員6人がレンタカーで震災地の役場と連絡を取りあって、宮古市、山田町、大槌町、釜石市の仮設住宅を1日3カ所回り、途中一関市でも演奏しました。

移動のたびに、津波の爪痕を眼にしました。がれきはすでに集積所に集められ、コンクリートや土砂、金属や木片などは分別されて小山となっており、街中は家屋の基礎だけを残して真っ平らでしたが、仮設住宅の皆さんはどこまでも温かく、喜んでいただきました。『北国の春』『母さんの歌』『故郷』などはほとんど全員の合唱となり、涙を流して歌っている人も、3.11以来「はじめて歌った」と言う人もいて、私も涙をこらえながら演奏しました。「また来てねー」「さようなら」「ありがとう」と手を振りあって集会所をあとにしましたが、遠く九州からの来訪であることや、障害者の演奏家の存在が被災者の方の心に強く響いたのだと思います。

以上のように、今はコーラスにハマっていて、昨年に続いて今年も10月21日から26日まで、東北の被災地仮設住宅の訪問演奏に行きました。復興は遅々としていますが、入居者の方と心の交流ができて私もうれしかったです。コーラスのほかでは、サイクリングや囲碁も楽しんでいます。

 

最後に、正調「高崎経済大学バスケットボール部 部歌」(1966年版)の歌詞を次に掲げて、私の報告といたします。

 

1.俺は経大のバスケット部員 義理や人情(なさけ)は知ってるが

練習づらさに今夜も飲めば 心にしみるよやけ酒の味

2.たまの休みにデイトをすれば 態度が悪いとどやされる

練習不足は初恋故に それがわからぬチョンガーの先輩

3.優勝しました表彰式で じっと見上げる観衆席

そっと見つめるセーラー服の 彼女(あのこ)の瞳に涙が光る

yamazumi          kasi

(前列左が山積さん)

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